「育つ」を欠如した「鍛える」
筋肉は鍛えると組織が破壊され、その再生時に太く強くなります。
体感的にいえば「久しぶりに運動したらはってる」という状態になり、その回復段階で筋肉が一回り強くなるのです。
だから「体をいじめると鍛えられる」となります。
これは筋肉の話。
肌の場合では、表面を破壊すると、防御反応が起こります。
赤みや肌荒れもそのような反応であって、これは「鍛えられた美しい肌」とは行きません。
手のマメやカカトの角質なども、いわば「鍛えられた」肌の状態です。
肌を美しくするのは、健康な状態を育て、維持するために「手をかけて世話する」ことが必要になります。 これは筋肉とはまた別の方向になります。
そもそも役割が違いますから当然と言えば当然です。
※筋肉でもその後のケアや栄養の摂取などでも状態が違いますが。
とかく「鍛え”さえすれば”強くなる」かのように現代では考えられています。
おそらく「創造的破壊」的なイデオロギーによるものかもしれません。
しかし「鍛える・強くなる」は1つの局面でしかありません。
「育てる」と考えるなら「鍛えるだけ」でも「甘やかすだけ」でも上手くいかないものです。
これは状況依存です。
だから「いつでも通用する万能のモノサシ」はありませんし、それに頼れるわけではありません。
したがって「育てる」という考え方は効率的な思考ではありません。
状況依存的に葛藤や悩みや考えることを要求するからです。
葛藤や悩みや考え育てることは、「育つこと」と同じ事です。
これを凡庸な言い方をすれば「親は子どもに育てられる」です。
「こうすれば、こう育つ」と単純化できれば、楽チンで効率的で、その効用もありますが、非効率部門の淘汰で毀損されるものもあり、これも凡庸な言い方をすれば「失った何か」です。
「何を失ったか?」といえば「育つこと」即ち「成長」でしょうけど、これを考えることは、多分「非効率」との誹りを受けるのでしょうからここまで。
後半はジジイのひとりごと。ともあれ肌は「すでに傷ついてる身体部位」ですから、こすったり、痛めつけないように。