師走に思う

terakaz
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2017年1月6日

今年は会社、自分の引越しで、まだどこかフワフワと根が生えていない感じもありますが、新しい生活にもだいぶ慣れました。

そして今津の頃からのお客さまでも今でもご縁を続けていける方々がいらっしゃることをとてもうれしく思っています。

新しい生活をいつも気に掛けてくださり、ありがとうございます。

次の4月から上の子が小学生になります。

「読み書きソロバン」くらいはしっかり教えておかねばと、色々やってはいますが、それぞれの科目の出来・不出来ももちろん重要なのですが、それ以上に、それらを勉強することを通して「学ぶ姿勢」についてしっかり身に付けさせたいな、という思いがあります。

恐山院代に南直哉というお坊さんがいます。

この人は禅宗の方ですが福井県の永平寺というお寺で修行しているとき

「これだけ努力したのだから、これだけのことが返ってくるはずだと思ってはいけない。それは世間のことで、取引である。その考え方から自由にならない限り修行の意味は永遠にわからない」

とよく言われていたそうです。

普通(というよりも自分のことを思い返しても)「この勉強をすることで、世間に出て何か役に立つのか?」とか、「割が合わない、損だ!」というような態度に陥りがちです。

だから子供は「勉強したら何買ってくれる?」「これを勉強したら何の役に立つの?」みたいな話をします。

こういうことを言い出すのも、ある意味で「勉強して損得勘定できるようになった」ではあるのですが、このままでいいわけではありません。最近はうちの子もこういう交渉を持ちかけてきます。

勉強を頑張っているのを見て「ねぎらう」というのは悪くないとは思うのですが、損得勘定だけで勉強するなら、それこそ「成熟するために勉強する」という教育の本義とはかけ離れた勉強になります。

もしその結果が「給料分以外に何かするのは損」「あいさつしても一銭にもならない」というような態度をわざわざ育てることになるなら、本末転倒以外の何者でもないと思うのです。

もちろん私自身も、子供も「僧侶」ではありませんし、「仏門の修行」をしているわけでもないのですが、それでも大人になるために、成熟や成長ということはずっと続けていかねばなりません。

そしてそれは必ずしもソロバン勘定で算定できるものではありません。

挨拶するときにちょっと笑顔を見せるとか、ゴミが落ちてたら拾うとか、周りの人を気遣うとか、そういったことで「給料が増える」とか、「何か貰える」とか「いい職につける」というようなことはありません。

でも「得はないけどちゃんとできる」は、一生のほとんどの場面で大切になります。

そして自分の周りの人たちに、そういう振る舞いをできることが「成熟する」とか「大人になる」ということなら、まだまだ自分も未熟な子供だなと、今年は反省の年末です。

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