一神教vs多神教 岸田秀 (2/3)
●一神教が人類の癌だという意味は、一神教の唯一絶対神を後ろ盾にして強い自我が形成され、その強い自我が人類に最大の災厄をもたらしているということです。結局、自我というのは病気で、自我の強さはその病気の進行度のようなものだけど、その場合の最大の難問は、自我の強い奴と、弱い奴が対決すると、必ず自我の強い奴が勝ってしまうということなんですよ、つまり、人類は、重い病気の連中のほうが勝つという絶対矛盾状況に置かれているということなんです。
●一神教というのは世界を一元的に見る見方であると考えています。つまり世界観です。
●ヨーロッパの世界征服の道具に使われたキリスト教は、「神は死んだ」とか言われて、神の存在が疑われ始めたあとも、そのまま世界を一元的に見る見方として続き、大いに力を発揮します。
- それはしかし、一般には理性と言われているものではありませんか?
●ええ、キリスト教が理性の宗教へと変身したと言ってもいいですね。ヨーロッパの思想の流れというのは、デカルトであれスピノザであれ、ヒュームであれカントであれヘーゲルであれ、みんな、神とは言うんだけど、要するにその神という観念を、理性というか普遍的な心理の方向にずらして行ったんじゃないかな。ヒュームは無神論ということになっているけれど、流れとしてはだから同じことですね。一つの一貫した原理で世界を把握するという一神教的な考え方はずっと残っていたし、今も残っていると思います。
●ニーチェが例外的であって、無神論、唯物論を唱える人達だって基本的に一神教、世界を一元的に見る見方にはまったく変わりがありません。そもそもニーチェの「神が死んだ」という言葉さえ、誰もまじめに考えてなかったんじゃないかと思いますね。神を理性とか,真理とか、正義とか、いろいろ言い替えるだけなんですよ。それほど骨絡みのものだったわけです。
●近代日本人は、ヨーロッパ人は自我が確立していて日本人は確立していないと思ったわけですね。
●結局、強い自我というのは強い神に支えられた自我であるということでしょう。つまり、自我の背後に一神教的な信仰がないと強い自我というのは成り立たないということはありますが、しかし、自我は強い必要があるのかな。
●現在の欧米を中心とした世界では、一神教的な自我のあり方しか認めていない、そういう自我のあり方がいちばんいいと思われているようだから、その点を批判する必要があると思います。しかし、では、どういう自我がいいかと言われても、積極的な案があるわけではない。むしろ積極的な案を出すこと自体に懐疑的にならざるを得ない。なぜなら、どういう自我がいいと規定するということは、いずれにせよ一つの規定になるわけですから、それもまたひとつの形の自我しか認めていないという態度に繋がりかねないと思うからです。
●一神教それ自体が絶対に悪いというわけではないですよ。一神教的な考え方であっても、他にいろいろある中のこれもひとつの考え方なんだ、自分はこの考え方が好きで選んでるんだというように考えているなら、別にかまわないわけですよ。でも、自分の考え方もいろいろある中のひとつの考え方なんだと認める一神教的な考え方なんて形容矛盾ですかね(笑)