一神教vs多神教 岸田秀 (3/3)

terakaz
terakaz
2017年1月6日

-自我は個である必要はないんですね?

●自我そのものが他者との同一視で出来ていますから、もともと個ではないんです。自我は元々他者を含んでいるのです。

●本人が正しいと思っている自我のあり方とは、自我が正当に敬意を払われているということです。したがって、迫害され、差別されているという状態は、単に被害を受けている、苦しめられている、損をしているということではなくて、正義が失われている状態です。自我はこの状態に耐えれられません。ここが重要な点です。迫害され、差別されている状態から脱出しようとする企ては、単に、受けた被害、苦しみ、損失の保証を得ようとするのではなくて、失われた正義を回復したい要求として表れるのです。

だから被害者は正義感が強いのです。だから、正義感には憎しみが籠っているのです。正義感に基づく行動は暴力的、破壊的なのです。心優しい、穏やかな平和主義感というものはあり得ません。正義は鉄槌でもって施行されるのです。だから、正義感ではいかなる問題も解決しないのです。

●ぼくは人間は本能がこわれた動物だと言っていますね。本能とは現実への適応行動を指示する指針のようなものですから、本能が壊れたということは、本能と現実の間にズレが生じたということです。本能の満足と現実への適応とは、人間以外の動物では一致しており、動物においては、本能を満足させれば、それがそのまま現実へ適応することになるのですが、人間においては、不幸なことに、この二つのことがズレてしまったのです。すなわち、人間は、本能を満足させれば、現実不適応になり、現実適応を求めれば、本能は不満足に陥るのです。

ぼくは、本能の求める自己を「幻想我」と呼んでいます。壊れた本能は現実から離れて幻想の世界に迷い込んでいるから「幻想我」です。生き甲斐、価値観、誇り、自尊心、アイデンティティ、己惚れ、誇大妄想などは「幻想我」に由来します。そして、現実適応を求める自己は「現実我」です。このような本能と現実とのズレに何とか対処するために自我が形成されたと考えられます。自我の役割は、絶対矛盾するこの「幻想我」と「現実我」との対立を何とか調整することです。

●自我というものをつくってしまって、それは厄介なものだから、なくせないまでも、せめてその厄介さをなんとか減らそうと思って、みんないろいろと考えるわけですね。ぼくは自我が幻想であることを知れば、問題解決の糸口が見えてくるのではないかと思ってるんですがね。しかし、やはり、幻想だとしても、ばらばらで切り離されていると感じられるところが自我の最大の厄介なところで、それを何とかしようというのが宗教の働きなのでしょう。

terakaz
未分類

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください