一神教vs多神教 岸田秀 (1/3)

terakaz
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2017年1月6日

●(キリスト教を)ローマ帝国が熱心に押しつけたといっても、押し付けられたヨーロッパの側にそれなりの素地。戦後日本人は受けつけなかった。ユダヤ教に引き続いてキリスト教も被差別民族の宗教だったからヨーロッパ人(白人種=人類最初の被差別民族)が受け入れやすかった。
●強い自我を実体的に想定することはできない。自我は幻想。強いものに支えられているから強い。唯一絶対神もしくは正義を背景に強い自我を持った。
追い詰められた過酷な状況では自我が危機に瀕する。そのため唯一絶対神が必要になる。
●後ろ盾がないと自我は成り立たない。それ自体で存立できる実体ではない。
●それは神であってもいいし、なくてもいいし唯一絶対神である必要はありません。多神教の神々でもいい。先祖が熊とか蛇、高田と信じている部族もいるそうですね。うちの家系は熊の子孫で、熊からずうっと血がつながっていて、強い力を受け継いでいるんだと信じていたっていい。そういう自我の支え方でもいいわけですよね。何だっていいんです。
●人間は本能が壊れていて自我をつくらざるを得ない。自我には支えが必要で、何が支えになるかというとなんだけど、本能が壊れていてメチャクチャなんですから。人間の自我はまず自分を人間だと思うところからはじめないといけない。そのためには、自分を人間だと規定してくれる何かが要るんだということです。
●必ずしも神である必要はない。
自分を人間と規定してくれるのは、普通自分を産んでくれた親ですね。人間しか他の人間を人間だと規定できませんから、自分を人間だと規定するには親が人間である必要があります。そのまた親も人間である必要がある。そのように遡っていくとキリがありませんから、人間を人間と規定できる神さまを設定しておくと、確かに便利ですがね。

●-自我には起点も終点もないから、その前はその前はという問を発し続けてしまうわけですね。それでどうしても先祖という観念が出てきてしまう?
追求していくときりがないので極点が神になるわけでしょうね。先祖崇拝というのは先祖が自分たちの起源だから崇拝するのであって、そうでなければ崇拝する必要はないでしょう。

●自分の自我を支えている神以外の神を他の人たちが自我の支えとするのは認めないということですか。自分の自我を支えている神と、他者の自我を支えている神とが同じ神でなければならない、自分の自我を支えている神が普遍的に他社の自我をも支えているでなければならないと考える人がいますね。
●世界に正義はひとつしかないと信じたい人というのも同類ですね。自分が唯一の正義を握っていると思っていて、自我は本当に安定しているのでしょうね。しかし、これもはた迷惑ですね。正義の普遍性を主張しているわけですが、正義はひとつしかないというのは要するに一神教でしょう。
●- 多神教は基本的に血族的なものによって形成される共同体に依拠している。それに対して赤の他人が出会う場所というのは都市ですね。都市においては、いろいろな人がいろいろな神さまを崇拝しているように見えるから現れ方としてはいかにも多神教的に見えるけど、実際には血縁的なものの否定から成り立っている。したがって、唯一絶対神への信仰が成立するのはむしろ都市においてであるとも言えるわけですね。

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